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榮太樓の歴史を語る資料を
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じっくり見ることができます。
「さあ、江戸まであともう少しだよ」
文政元年、それまで埼玉県飯能で
菓子商をしていた細田徳兵衛が、
2人の孫を連れて江戸に出府。
現在まで続く和菓子業の礎となる「井筒屋」を
九段坂に構えました。
時代は下り、徳兵衛の曾孫にあたる
3代目細田安兵衛(幼名栄太郎)が
日本橋の袂に屋台を開きます。
「家族を支える孝行息子」「気前の良さ」など、
栄太郎の人柄も愛された理由のひとつでした。
やがて安政4年、旧名日本橋西河岸町
(現在の栄太楼ビルの地)に独立の
店舗を構え、自らの幼名栄太郎にちなんで
屋号を「榮太樓」と改めました。
こうして、榮太樓の歴史は幕を開けたのです。
安政年間に現在の看板商品となる
「梅ぼ志飴」
文久年間に現在広く売られている
甘納豆の元祖である「甘名納糖」
明治に入り「玉だれ」「黒飴」を創製。
梅ぼ志飴の名称は、
その姿かたちが梅干しに似ていることから、
洒落好きな江戸っ子が名付けたもの。
また明治・大正の頃、上方の芸妓・舞妓たちが
梅ぼ志飴を唇に塗ってから口紅をつけると、
唇口が荒れず照りが出ると
東京土産に請うたという逸話が残っています。
戦前には、東京繁盛菓子屋番付に
大関や横綱として度々掲載され、
東京随一の繁盛店として認知される
存在になりました。
第一回内国勧業博覧会で「甘名納糖」が
優等賞受賞
イギリス・ロンドンのサウスケンジントンで開催された
「万国発明品博覧会」に参加、出品
東京大空襲で日本橋店舗・工場が焼失。
焼け野原の店舗跡で従業員と共に
失意に暮れるも、
再建の意思を強く持ち、
復員してきた職人を集め
戦後すぐに復興を志します。
日本橋のお休み所として、
再建した日本橋本店内には喫茶室を開設。
生産拡大のため、昭和31年には調布工場を竣工。
そして昭和37年には、創業の地日本橋に
栄太楼ビルを竣工。
敗戦後の東京において目覚ましい復興を遂げ、
事業を大きく発展させていったのです。
日本橋本店内に喫茶室を併設
東横のれん街設立、
百貨店市場に初出店
「抹茶飴」発売
「紅茶飴」発売
日本橋に
栄太楼ビルを竣工
全国の百貨店、駅ビルに
食品名店街が広がるのと共に、
北海道から沖縄まで全国に店舗が広がっていき、
さらに、本店喫茶室にある
「みつ豆」「あんみつ」の味を商品化。
「美味なるものの大衆化」を掲げて
専用の缶の開発から着手し、
みずみずしさと長期保存のメリットを併せもった
画期的な甘味としてお茶の間に
広く定着させました。
水ようかんとともに夏の主力商品に
成長したみつ豆は、
昭和49年よりテレビCMを放映。
「はーいえいたろうです」のジングル・ロゴが
世間に広まり、
榮太樓を象徴する
商品のひとつとなっていきました。
映画「和菓子」製作 国内外で9つの賞を受賞
「水ようかん」
発売
「みつ豆」
テレビCM開始
缶入り「あんみつ」発売
平成に入り、量販店市場にて「黒みつ飴」
「しょうがはちみつのど飴」を発売。
全国のスーパー、コンビニ等で各種商品を
広くお求めいただけるようになりました。
続いて2007年、榮太樓のセカンドブランドとして
コスメや宝石のような革新的な飴のライン
「あめやえいたろう」が誕生。
また、榮太樓飴シリーズに50年ぶりの新商品
「のど飴」が加わり、
2009年にはインターネットの普及に伴い
「楽天市場」「老舗通販.net」などの
オンラインショップがオープンしました。
2010年、榮太樓の名代菓子である金鍔を、
手焼きの品質を守りながら
日保ちする個包装化に成功。
2013年、八王子に生産工場を新設移転し、
生産体制をさらに強化。
同年、国産果物を使用した他に類を見ない
無香料・無着色の果汁飴5種を新発売。
「世界最高品質の飴を作る」をテーマに
榮太樓飴のラインアップを広げています。
また人々のライフスタイルの変化に合わせ、
2015年、多彩な和のお菓子から少しずつ選べる
「にほんばしえいたろう」
2017年には体に優しい糖質オフの
「からだにえいたろう」の新ラインをスタート。
一方で、なつかしい東京のお土産
「東京ピーセン」を復刻するなど、
外国人観光客からも注目される
スポットとなった日本橋から、
今日もこだわり抜いた本物の味を
お届けしています。
「金鍔」個包装タイプ&
「のど飴」発売
「果汁飴」発売開始
「東京ピーセン」発売
「からだにえいたろう」誕生